top of page
執筆者の写真望月 大仙

第二回「奈良の心を聴く」ホテル尾花にて

 

 12月14日、ホテル尾花にて第二回「奈良の心を聴く」と題して講話会と聴き込み寺を開催いたしました。


 8月に開催した際には9名ほどの方が参加して下さいましたが、今回は16名の参加者があり、少しずつご縁の輪が広がっていることを実感いたしました。講話では私が以前からブログでお話ししている処世界さんの日記を補足しながらのお話。


 マニアックなお話ばかりでしたが、 参加してくださった皆さんは私のブログも読んで下さっていましたので、非常にスムーズに話が進みました。今回お話しした内容は特に「称揚」に関するものです。


  12月16日には練行衆の発表がありましたが、 今回の修二会では処世界に上司永観さんが新入として入れます。新入が初めて行う時導師それが称揚です。この称揚の声明は普段のものとはちょっと異なり、供養文と呼ばれる段を略さずに行います。この供養文は法華懴法でも用いられ、天台宗の方には馴染み深いかもしれません。


※供養文

「一切恭敬 敬礼常住三宝 是諸衆等 人各胡跪 厳持香花 如法供養 願此香花雲 遍満十方界 供養一切仏 化仏並真法 菩薩声聞衆 受此香花雲 以為光明台 廣於無辺界 無辺無量作 仏事供養已 一切恭敬」


 修二会においてこの供養文は3通りあり、 一つはこの称揚、もう一つは六時次第のうち晨朝、そしてもう一つは法華懺法です。


 それぞれ節が異なり混乱することもありますが、称揚の声明は非常にゆっくりと微かな声で行うことが特徴です。ちなみに、他の六時の行法ではこの供養文はかなり省略され「辺無量」しか唱えられません。


 今回の修二会で聴聞ができるかどうか分かりませんが、 もし中で聴聞することができないのであれば、たとえお堂の外で耳をすませて壁に耳をつけていたとしても称揚の供養文を聞き取ることはできないでしょう。


 また、新入が称揚に挑む前にはいくつか乗り越えなければならない試練があります。その一つが2月12日に行われる習礼であり、その際にいかに緊張したのか、どのような場所で行ったのかなどをブログに基づいて細かな説明を身振り手振り、ホワイトボードも使いながら説明を。


 今回の講話会では12月16日の日記から、2月の20日の総別火入りまでをお話ししようと思ったのですが、話に興が乗りすぎたせいかなんと、別火に入るまでしかお話することが出来ませんでした。


 主に、修二会でどのようなものを用意するのか?というお話です。普段使わないものが多く、様々なものを用意する必要があるのです。


 特に気をつけなければならなかったのは衣類です。下着、足袋、襦袢、寝具などすべて動物性のものは使えず、かつ真っ白なものでなければならないのです。また、洗濯はどうするのか?コロナ禍で変化したことは?といったご質問も上がっておりましたね。


 まだまだ話したりませんので、この続きはまた次回。まだ日程ははっきりしませんが、もしかしたら2月頃にできるかもしれません!


 1時間ほど話した後は質問の時間を30分ほどとり、それから休憩時間には私が書写した処世界私日記を公開しました。



 練行衆が参考にしているこの処世界日記は基本的には3月1日以降のものしか書かれていません。 また処世界以外の練行衆の仕事も、この処世界日記を参考に割り振られているものがあります多くあります。


 この処世界日記の解説については、また別の機会に行いたいと思います。


  また、日記の中に書かれた挿絵や図解など、これが何なのか?これは何を示しているのか?と色々と質問を受ける和気あいあいとした時間でした。


 後半は聴き込み寺です。私は普段路上で傾聴を行っています。しかしホテル尾花さんで行なっている聞き込み寺はちょっと形式が異なります。


 参加者全員が会議室に車座になって座り、お話を聞いてほしいという方と私が話している様子を他の参加者が一緒に聞いているという状態です。


 そして話を聞くだけではなく、 ボディワークやエンプティチェアと言った心理療法の技法を使いながら その人が思っていること感じていること、本当は何がしたいのかといった根源的な部分にアプローチをしていきます。


 そうしていくとわたし自身も、話している人自身も知らないことや気づかなかったことが次々と現れます。


  同時にそれを見聞きしている他の人たちの心の中でも新しい動きや気づきが現れる。それを共有し、また気づいていく。


 このプロセスの繰り返しが、 参加する皆さんとの間でより良い場を作り出すことができるのです。


 一つ、実際に行ったワークを紹介しますね。主題は「他人との関わり方」についてでありました。


 お話を聴いていく中で華厳のお話になり、円覚寺の方が「雑華厳浄」について解説されており感銘を受けたというエピソードが出てきました。なので今回はそれを利用して花のイメージを使ったワークを行ったのです。


 仏教では蓮華を悟りのイメージとして用いますね。蓮華は泥中より生じ、汚れを寄せ付けない。妙法蓮華経などがその良い例でしょう。


 しかし、蓮華だけが美しい花でしょうか?「雑華厳浄」では、ありとあらゆるすべての花が等しく美しく、仏であると説きます。


 その方は「蓮華だけにとらわれる」という考えが、蓮華になれないことを否定されたように感じ、この「雑華厳浄」の思想にとても共感されたそうです。


 この考えや教えは、現在の価値観や考え方に非常にマッチしていると感じます。なので私はこれからの仏教界は「華厳」が来る!と言い続けています笑。


 さて、ワークのやり方は簡単で、自分の中にある花を見つめてもらうことです。それがどんな花になるのか、私はまったく想像が付きません。


 その場にいる皆さんにも一緒に自身の中にある花をイメージしてもらうと、小さな花、大きな花、赤い花、黄色い花など、人によって全く違うイメージが湧いてきます。


 みんな違って、みんないい。花に貴賤は無いというのは皆さんすぐに納得するのですが、人に貴賤は無いというと「綺麗事」のように捉えてしまう人の多いこと。



 それを結びつけて考えることができれば、自他ともに尊重することのできる心構えができていくのではないでしょうか。


もちろん、一朝一夕ではできませんし、うまくできないのは当然です。人間だもの。


 このように傾聴の枠にとらわれず、その場に出てきたものを使ったスタイルは、以前オンライン聞き込み寺でも用いた手法です。


 元々修二会の隔離期間中にこのオンラインの聴き込み寺を行い、たまたまそれに参加していたホテルの方が是非これをもっと多くの人に味わってもらってはいかがかと提案してくださったことが、このホテル尾花さんでの聴き込み寺の開催に繋がりました。


  私がお水取りに籠もらなければ、コロナが流行らず隔離期間などがなければ、このような機会は訪れませんでした。


 ある意味このご時世のおかげで繋がった縁です。どのような理由であれ繋がった人とのつながりが大切なことに違いはありません。


 12月16日の練行衆の発表では私は処世界を卒業し、権処世界として来年のお水取りに参籠する予定です。その中でまた新しいご縁をえることができるだろうと期待しておりますし、権処さんの日記も、書くことができるかもしれませんよ!

0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page