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執筆者の写真望月 大仙

権処さんの日記(その零・この日記について)

権処さんの日記 その零・この日記について



 かねてから「処世界さんの日記」の続編を書こうと思っておりました。しかし、これがなかなか難しく、いかんせん筆が乗らなかった。


 2年目、3年目も処世界として修二会にこもらせていただいきました。その中で、「六時の声明」の時導師であったり、「神名帳」の奉読であったり新しく体験するイベントがいくつもありました。


 これらも日記に書けるかななんて思ったりもしましたが、結果として日記として形にするには至りませんでした。日記を書くために私が重要だと感じたのは「視点」です。


 そもそもなぜこのような日記を書き始めたのか。東大寺で行われている修二会という行事は非常に興味深く、面白いにも関わらずそれを知らない人があまりにも多いこと。(とくに関東では知名度は限りなく低い)そして、その上で参籠する中で、「私」というイレギュラーな存在だからこそ見える「視点」があると感じたためです。(さらに、コロナ禍という特殊な環境も要因の一つです)


 この修二会は何十人もの人々が織りなす総合芸術のような行法で、その全容をつかむためにはどれだけ長い年月を掛けても足りません。そのため、修二会を紹介する場合は東大寺の長老様のような大ベテランの練行衆がその役目を担います。しかし、それは「高い視点」からの見方でも有るのではないかと感じるのです。


 それは何十という修二会への参籠の中で得た気づきや知識、経験といった何層にも渡る集積の果てに見えてくるものです。広い視野を以て、長い行法の歴史と責任の中で研ぎ澄まされたそのお話は宝石のような輝きを放ちます。


 しかし、それらを積み上げている最中のリアルでライブ感のある感情や体験を共有するという試みは今までなされてこなかったのではないでしょうか。その人が何に気づき、何に感動したのか。どこに興味を惹かれたのか。そういった驚きや喜びは今その瞬間にこそ輝くものだと感じます。そしてそのような試みは末寺の、しかも関東という東大寺から離れた場所から参籠する私だからこそできる方法でもあります。


 その私が感じたことや経験したことをリアルタイムで共有することで、皆さん自身が修二会という大きな行事に参加している、ないし参加したいと思ってほしいのです。


 練行衆としての体験が、個人の中で完結するものではなく、処世界さんの日記を読まれてきた皆さんや、普賢光明寺をさせてくださっている皆様と共有され、共にいるような感覚で行法に臨む。現代ならではの行法への参加の仕方なのではないでしょうか。 


 さて、前置きが長くなりましたが、なぜ処世界さんの日記の続編を書けなかったのか。それは新しく刺激的な「視点」を提供できないなと感じたためです。


 今回は初めての役職の変更がありました。「権処世界」という新しい視点からの修二会体験記。「権処さんの日記」と題して四年目の練行衆の視てきた世界を綴って参りたいと思います。


 毎週月曜更新を予定してまして、次回は「12月16日」の権処世界さんです!

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