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執筆者の写真望月 大仙

処世界さんの日記(弐拾八)

令和二年二月二十九日



 二月堂参籠宿所に入るのは実に十年ぶり。かつては仲間として籠もった時以来であるが当時と全く変わらない空気に、修二会にとって十年というのは瞬きの間のようなものなのだなと実感したものです。


 当時は「咒師」さんに付いていたため、参籠宿所の東側(回廊側)のお部屋の担当でした。そのため日当たりが悪くちょっと寒く、隣の「和上」部屋担当の水島太郎さんと焚き火にあたっていたことを覚えています。


〈参考 参籠宿所の中の構図〉


※細殿(ほそどの)と呼ばれる通路と参籠宿所の入り口。ちなみに、この窓は大導師宿所の窓になります




 今回は「大導師部屋」。参籠宿所の西側に位置しており日当たりは比較的によい。図を見ていただければ分かるように最も外側に位置する。人の出入りが多い場所であるが、この頃になるといよいよ疫病の恐怖がじわじわと広がり面会はお断りすることが決まっておりました。


 参籠宿所には「面会謝絶」の看板がかかっているのです。とはいえ、多くの方がお見舞いにいらっしゃるので機能していなかったのですが、ここに来て本当に面会謝絶と相成るとは誰も思っていなかったことでしょう。


 処世界さんは少し懐かしい気持ちのままチャンブクロを脱いで一息つきます。改めて同室の大導師さんによろしくお願いしますとご挨拶。ちなみに私が仲間の時は、上司師は堂司をされておりました。


 奈良の修二会では壇供と呼ばれる大きく丸いお餅があります。これは作られてから、実際にお供えされ、下りてくるまで一週間以上かかります。もちろん、保存料などは使っておりません。なのでこれがカビる。雨の多く温かい年などは特に。


 お餅を保存するために真空パック包装をするのですが、お餅についたカビごとパックしてしまえば意味がない。そこで、お餅に付いたカビは包丁などで削ぎ落とすわけです。まぁ、仲間であった当時の私は世間知らずでおっちょこちょい。取り柄は鈍感なことといったもんです。


 そんな私は頂いたお餅を家に送るためにお餅についたカビを削ぎ落としていたんですね。ナタで。もうおわかりと思いますが、ついでにざっくりとやってしまいまして。もう練行衆たちは寝ていた時分にも関わらず、上司師が騒ぎに気づき心配して様子を見に来られたことはよく覚えています。当時から終始お世話になっております。ちなみに最近の壇供はあまりカビません。


 さて、次の予定はお風呂。二月堂に上がって間もないのにまずはお風呂なのです。実は本行中のお風呂はかなり早い時間に行います。だいたいが二時から三時ごろ。別火坊では狭いお風呂なので和上から順番に入っていましたが、二月堂下の湯屋は四人が入れる程度の大きさ。洗い場も狭いながら全員が一度に入ります。


 お風呂の時間にまると「駈士」が「お湯屋へござろう!」と声を上げながら宿所を一周します。四時頃だったでしょうか?練行衆はその声を聞いて湯屋へと向かいますが、この時の装いは紙衣の上に絹でできた湯屋小袖と呼ばれる衣を着ます。


 湯屋小袖を着ている時にしか出来ないことがいくつかあります。髭をそったり、爪を切ったり、頭を剃る(もしくは加供さんのバリカン)にもこれを羽織っているときか、完全に紙衣を脱いだ時しか出来ないのです。


 紙衣は紙から出来た清浄な衣であります。一方で絹というのは蚕から作り出され、しかもその蚕を煮殺して作る。殺生を伴うものです。修二会には相応しくない代物です。しかし、あえてそれを羽織る。


 先の別火坊から二月堂へと向かう際も中に湯屋小袖を羽織っています。他にも別火中の「糊作り」など力仕事を行う際や「粟の飯」にもこの湯屋小袖を羽織ることが決まっています。


 本来練行衆は地面を踏むことが出来ず、地に宿る不浄霊や鬼に対してとても気を使います。自信を正常に保ち、本行に臨むためです。しかし、それらに触れなければならない。別火坊から参籠宿所に行くには、清浄でない道を歩まねばなりません。また、参籠宿所から湯屋までも同様です。



 つまり、絹の衣をまとうことで一時的に不浄を纏うことで、周囲の不浄からその身を隠す意味合いがあるのでは無いかと思います。もしくは不浄の避雷針として用いているのかもしれません。ヒゲや爪、髪についても同様で、忌中や神事においてなどにこれらを避けるのは、それらが刃物を扱い、やもすれば汚れである血を流すかもしれないためです。故に修二会でも紙衣をまとっている時にはこれらの行為は禁じられているのだ。


 さて、そんな湯屋小袖を羽織って一同湯屋へと向かうわけですが、実は処世界さんは湯屋に向かうのが初めて!他の練行衆は「試みの湯」などで別火中に一度使っているわけですが、新入の処世界はすでに総別火に入っており外へ出ることが出来ない状態。


 なので「どこに湯屋があるのかわからず処世界さんは閼伽井の辺りでウロウロと彷徨ってしまう…。そこで駈士が処世界探しに来てくださり道案内をする。」という決まりなのです。


 そこで処世界さんは「どこまで行けば良いのかな?」と思いながら次第に書いてある通り閼伽井の方までフラフラと歩いていく。すると「違う違う」と物言いがついた。そうベテランの修二会ファンの方々です!フラフラしている処世界さんにどこで待てばよいかアドバイス。なるほど、とちょうど雨が降っていたので食堂の端でしゃがんで待機する。その様子も写真に収められ少々気恥ずかしいが教えていただいたので、傘のアングルを決めて被写体に徹するのだ。




 走行しているとニコニコしながら駈士さんがやってくる。「どこで待つのかわかった?」「いやぁ、周りの方に教えてもらいましたよ」と笑いながら湯屋へ。笑顔で湯屋に向かうと練行衆一同が座って待機している。


 このときだけは全員揃ってからお風呂なんですね。慌てて末の席に蹲踞。和上さんから点呼を取るように「シッ」という挨拶。「シツ」っと息を吐き出すだけの挨拶は修二会ではよく使われます。これは基本的に私語が禁止であることから、「お先に」「どうぞ」のような簡単な挨拶はこれで済ませるわけです。それが終わってからお風呂。


 もちろん、シャワーなどの文明の利器はありません。湯船からたらいでお湯をくんで体を洗う訳です。いまでこそ給湯などは便利ですが、かつてはお風呂に入るというだけでも重労働だったわけですから、湯屋に人が何人も詰めることになっているのも当然のことなのでしょうね。その理屈だと昔はもっと手伝いの人数も多かったのでしょうか?もしくは当時の人にとっては当たり前の仕事だったのかもしれません。



 ちなみに、湯屋へ行く際には仲間が湯屋の前で待機しており、なにやら白いものを練行衆に渡しているシーンを見ることが出来ます。これは「湯上がり」と呼ばれ、お風呂から上がって、濡れた体に羽織ることでタオルのような使い方をするための白衣です。とはいえ、現代ではあまり馴染みがない風習のため、仲間さんにタオルと石鹸を湯上がりの中に仕込んでもらって、それを受け取るといった具合です。


 ちなみにその白衣やタオルの管理も仲間の仕事。お風呂終わると仲間部屋は干した白衣でいっぱいになります。どれが誰の白衣なのか、覚えておく必要があるので大変!


〈参考 浴衣の歴史〉

https://yukatabunka.com/%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0/%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


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